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[709] 短編集【homeという一単語の訳し方】
日時: 2007/05/30 21:27
名前: 匿名 ID:vDNYlPi6

【掌の中の明日/thanks to “everyhome”...】>>27
【今宵、この泳げぬ魚達の庭で/my fragile sign】>>28

※鬼束ちひろの「everyhome」「magical world」「秘密」に感銘を受けた作品。
homeの訳し方をどのようにするかなんて、誰の自由でもあるでしょう。
だから鬼束さんは好きなんだよなあ。暗喩の価値が現存してる。
僕の翻訳はこの二作品に見られる通りです。そしてそれだけが、このhomeじゃない。
メンテ

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Re: 短編集【減光のモザイク】 ( No.24 )
日時: 2007/04/30 21:48
名前: 匿名 ID:/AvtVilU

【永遠に葬れ、彼方のオールド・ギター・リズムを――the beginning】

 被支配というのは、結局無責任な状態でしか成り得ない。つまりは、彼らは支配されるという特権を得ている。結局の所、“市民的な”という形容動詞が意味するのは被支配の従属に喜びを得ている事でしか無い。つまり、神という物への信仰というのは古代的従属である。
 そして従属というのは古代的解放だ。自由というのは先見的従属だ。
 ――オールド・ギター・リズムが、世界の果てから聞こえてくる。
 紅の曙光が満ちる海の目覚めに彼はぼんやりと座っている。波は触手の様にわななきながら生命に満ちた流動を繰り返している。潮風が見知らぬ大陸から吹き続けている。それは地図の上で行われているには、あまりにロマン的だと彼は思う。
 ――オールド・ギター・リズムが、海の向こうから聞こえてくる。
 生命というのは、一体何なのか。下らない言葉は要らない、人間にとって、もし便宜的に最良という言葉を使う事が許されるなら、最良の方針は生を肯定する事に他ならない。人間というのは、命を実感出来る生き物であるから。
 彼は目を瞑りながら孤独と研ぎ澄まされた幸福感に満ちたリズムを聞いている。海の彼方の発する巨大な目覚めにを彼は感じ取り続ける。見上げた空から染み渡る青は凍りついた刻を再び動かし始める。彼の手の中に巻き付けられた銀の鎖。その先では金色の針を持った懐中時計が潮風にゆらりゆらりと揺れている。
 揺れながら金色の時針と分針は正確にリズムを刻み続ける。言わばそれは電子楽器のリズムだった。古代の崇拝と弦楽器の音色。現代の無神論と電子音。二つは交じり合いながらやがてセピア色の輪郭が海へと落ちていった。
 海の波は消え、神話のリヴァイアサンは収束を始める。やがて青い輪郭は消失を始め時代の墓碑へと彼は堕ちていく。永遠に葬れと彼は微笑して呟く。
 神の消えうせたエデンで、暁の光が新時代のエデンを照し始めていく。
メンテ
Re: 短編集【減光のモザイク】 ( No.25 )
日時: 2007/05/01 23:49
名前: 匿名 ID:3lQ2UneI

【この手を伸ばして、光を浴びて】

 青と流浪のスパイラル、校舎の屋上から見上げた空に張りつめた光を手で掴む様に。伸ばした指の肌色が油絵みたいに朧げな輪郭で見えている。飛ばした紙飛行機は大気の海に航海を始めたように何の秩序も無く飛んでいく。不思議じゃん世の中ってとか妙な自問をしつつ、見上げた空の明るさに目を瞑る。
 空が青いのは海の光を反射してるかららしいよ。隣に居る君はそう言う。何かそれ凄くつまんなくない? いや、私としては君のその神秘主義をどうにかしてほしい。神秘こそ私には退屈な事ってやつ。えー。全然解んない。神秘主義者の脳味噌の限界地点か。仕方ないな。解ったからスカート履いたまま地べたに座るなよな。その発言気持ち悪いからそんなに空が好きならそっから飛び降りて死ね。
 いいじゃん別に色々楽しんだってさあと言いつつ太陽に手を翳してその影を見ている。螺旋は生死の象徴らしい。元ネタの参照を三秒以内に報告して。んー。ウィキウィキじゃなくてジーニアス。貴様何故最強呪文ウィキデググールを使わんか。いや俺ウィキ使わない派だから。死ね。今すぐお前は太陽に焼かれて死ね。
 風が吹いている。春風は嫌いだ、眠たくなるから。お前は超動物的人間だからな。仕方ない。いや神秘主義って寧ろ非動物的じゃね。知らん。私に聞くな。お前滅茶苦茶だぞ。じゃあこう定義する。私が馬鹿だと思った奴はただの人間、私がすげえ馬鹿と思った奴は超動物的人間だ。解ったか。いやそれ激しく強引ですよ。
 君は本を読み続けている。ニーチェの哲学書らしい。そんな物を読めるはずも無いし興味も無いので光に手を翳して影を作って遊んでいた。昨日まで降り続けていた春の雨が作り出した小さな水たまりに石を蹴飛ばして居れる。春の風とまぼろし。そんな言葉が突然閃く様に姿を表す。言葉の響きを口元で再確認してみる。
 何お前さっきからごにょごにょやってんの。君が話しかけてくる。ゴニョニョってポケモン居なかったっけ。いやそれ忘れたし。お前どの時代のポケモン好きだよ。んー。俺は金銀が好きだった。レトロゲーマー気取り気持ち悪い死ね。お前それ激しく特定団体を愚弄してるぞ。知らん。私こそ治外法権だ。お前と居ると詩情とか無くなる。
 腕時計の金メッキを塗られた分針は刻一刻と続いていく。春の風とまぼろし、もう一度呟いて見る。見上げた空は手が届いてしまうぐらい近く見えてしまうのに、実際にやってみると突然逃げ出してしまうのだ。いや別にそんな事は今更であって子供の頃は空に手が届くわけがないさとか思っていた。でも何となく、それは寂しかったりするのだ。
 溢れる青春の無駄遣いだよなこれ。ああ。昼間っから空に向かって手伸ばしたり紙飛行機飛ばしたりする危ない人なんか特にそうだな。何処の国の学者のかも解らん死体の本なんて読んでる奴もそうだろ。ああ。溢れる青春の無駄使いだよなこれ。やっぱ私も部活に入るべきだったりするか。お前の場合協調性世界のロッカーに忘れたから無理だな。
 世界のロッカー、多分そこには夢とか本気で信じれた時代がある。青春は日々砂時計みたいに落ちていく。そんな訳でも無いかもしれない。気付ける人、余裕のある人は多分青春はどこにでもあるものなのだと思う。螺旋の内側にビー玉を転がす。螺旋は少し中心に向かって傾いていて脱落を見事に防いでいる。カラフルなガラス玉は器用に螺旋の中を滑走していくけど、時には何個か螺旋から落ちていってしまう奴を居る。そんな彼らを拾ってくれるのが世界のロッカーの管理者である。でも多分そんな優しい奴は世界には居ないだろうなあとか思う。
 あーもうさ、どう考えても俺達精神的留年だよな。いや俺達って何だ。少なくとも私はお前と和気あいあいともしてないし今後するつもりも無い。大体貴様はニーチェを読んだ事があるのか。いや読んだ事無い。三行で説明頼む。ああ、三行で言うなら宗教法人逝ってよし、ニートはとっとと死ね、アホは路地でくたばれ。ネタですかそれ。というかそれ放送コード的にどうなんですか。放送コードって何だ。だから私は治外法権なんだ。
 君と話していると今まで見上げた空を青と流浪のスパイラルと表現していた自分が格好悪いなあとか思えてきたりするのだ。不思議な話だしフォーマルな恋愛小説みたいでこんな事は言いたくないのだが、影響されている。でもまあ見えたままを言葉で飾ってどーんと発射するのも悪くないなあとか思ったりもする。
 あのさー、昔楽しかった事とか思い出す事無い。いや無い。私は治外法権かつ超人だからな。いやその超人って何だよ。解らんならスルーしておけーだ。いや寧ろスルーしろ。で本題なんだが本当にそういうの無いのか。まあ無いといえば嘘になる。よく思い出すのは子供の頃に食べた生春巻きが世界観変える程上手かった事だ。お前物凄い勢いで平和な人間だよな。あのなお前。所詮視覚も味覚も同じ五感に過ぎないんだよ。うぜこいつ。
 鳩が飛んでる、超平和な勢いと速さで。多分今どき町中で猟銃を乱射したりする様な人も居ないだろう。白いシルエットがパタパタ羽音立てながら安手のアニメみたいに飛んでいくのを見ていた。何かちょっと不安になる時ってあるよね、あんまりにも定型過ぎるっていう事に。こういうの、誰にでもあるかもしれないけど。
 前世占いとか信じるタイプかお前。いや私は信じない。所詮私達が定義する生命というのは私達の脳味噌を刺激し続けている電流に過ぎないからな。あ、お前の前世芋虫で決定な。かっこ強制的だからこれ。だが断る。大体私の前世はもう少しランクが高いはずだ。少なくともポッキーのチョコレートの部分ぐらいはある。いやポッキーで寧ろ貴重なのは何もかかってない部分だろ。神秘主義者には解らん味なのだよ仕方あるまい。うぜえ。
 ロマンとか何か見出しちゃ駄目ですかねえ、とか思いつつゆらゆら目標もなく漂ってる。そんな自分でも悪くないなあとか思ったりもする。ノートの片隅に訳の解らん宇宙人の電波信号みたいな詩を書いてみたり、ただの青空に何処の王妃の着用なされるネックレスのお名前ですかと言わんばかりの名前を付けてみたり。そんな中二病も嫌いじゃない所から多分精神的留年なんだろうなあとか思いつつ、見上げた空に今度は新しい比喩とか考えてたりするのだ。
 あのさ、お前比喩とか作った事ある。別にない訳でもないが何か。うん、お前も今日から神秘主義者でアンテナ強制装備で中二病って事で決定な。かっこ強制だし。断る権利は与えないし。だが断る。お前つまんねーよ。生憎私はお前みたいな超動物的人間どきゅーんに付きあう暇も無いのでな。どきゅーんって何だよ。つーか色々言いつつ結局は話付きあってるじゃん。死ね。
 あーもう青春の無駄遣いだなあなんて思いつつ味の追憶が実際に楽しいのかどうか確認する為に始めてみる。生春巻きってどんな味なのかは知らないけど俺の最も愛するボンタンアメの味を思い出して結構楽しんでみる。どう考えても辞書無しじゃ読めない様な哲学書っぽい物、どこぞのボケ老人の遺言を君は読んでる。多分それは生春巻きとまでは行かないがうまい棒を思い出すぐらいには楽しいに違いない。そんな下らない事を思いつつも、この手を伸ばして、光を浴びてみたりして。そんな新興宗教の儀式みたいな事をしながら目を瞑ってみたりもするのだ。気ままな比喩と言葉のフレーズを浮かばせながら。
メンテ
Re: 短編集【減光のモザイク】 ( No.26 )
日時: 2007/05/22 21:45
名前: 匿名 ID:yh8HqdZo

【渇く雑草、水路の澱】

 朧々と暗闇が蔓延する視界の中で、手で有りもしない光を探り続ける。
 額から流れる自分の血液を鬱陶しく思える領域すら限定された暗闇に、一人生死の境界でもがき続ける。
 渇く雑草が手に掛かる、雑草の鋭さ、渇いた表面が指先を玩ぶ、汚いらしい血液、血へどを吐く。
 月の見えない真夜中の水路岸、澱の様に冷たく横たわり続ける水音と風の音、弾痕と硝煙の匂い。
 何処かで大砲の響く音がする、ざらつき合う夢が困惑を繋ぎ合わせる様に、世界が崩れて行く感覚だけが持続していく。
 渇く雑草、水路の澱、自分の肉に包まれながら眠りたいと思った、この身体が殻の様に自分を包んでくれれば、と。
 血の続く一色の世界、暗闇に侵食される、片手に握った雑草の乾きが、生の感覚を僅かに滲み出している。
 弾痕を刻まれた掌の肉が水路に落ちる感覚を感じながら、生きているという事を思い出している。
 渇く雑草、水路の澱、自分の肉に永遠に閉鎖されたいと思った。でも掌の肉は生臭い匂いを放ち淀む水に落ちたまま、動こうとはしない。

 ――貪るだけでは満たされない何かがある、と言っていた友人が何の変哲も無く自殺した。前に記した友人の事だ。
 多分に、彼もまたその渇きに気付いた人間だったのだ。厄介な自尊心というか、人間には妙に意固地なところがある。
 人間は幸福のペットでありたくないと常に言い続ける、幸福を求める癖に。例えば幸福は恋愛に似ては居ないか。
 可愛らしい矛盾とか甘ったるい賛美とか孕んでる辺りを見ると、幸福というのは本当に女性名詞の様な存在だ。
 渇く線上の水源地を求めよ、と彼は最後まで夢想的な言葉を残し続けた。ピストル射殺だった。彼らしい、責任のある自殺だ。
 自殺だけが果たして幸福・不幸の狭間からの脱出手段なのか、いかんせん僕には解らないものだ。全く下らない妥協に過ぎないからね。
 多分僕の様な市民的な人間、とりわけ憶病者の癖に誇りを持ち続ける小市民的な人間には自殺は似合っていないのだろう。
 君の様な人間にはあるいは似合っているかもしれない、どうであれ君は死と隣り合わせに居ると聞くけれど。こんなデリカシーの無い表現をしてすまない。
 ただ何となく君が遠くに行った事で、欠如という言葉だけが思いつくような時間を過ごしている。後、どうにもご飯が作れない。
 紅茶が美味しくないと君に文句を言えたのに、なんていう失恋歌があったけれど、あれを思い出している。自分には文句が言えない。
 ここまで書いていてふと思ったのだけれど、幸福というのが恋人だったとするのなら、それに文句を言える事自体幸福と恋愛関係にあるという事なんだろう。
 貪るだけでは満たされない何かがある。多分その何かというのは、アルコールで代用出来る程度の物なのだろうと思う。そうではなくては、幸福が市民的じゃない。
 君の戦雲が輝かしい物であるよう祈り続けている。ただ護符のような物を送り付けるのは君にとっても迷惑だろうから、止めておく。君はそういうのが嫌いだったから。
 君の生が続く事だけをただ祈りながら、日常を過ごしています。如何なる形であろうと君が生きている終戦を待ち続けています。
 氷と交じり合った泥濘が溶け、微かに大地も緑に包まれようとしている。春風と木漏れ日が柔らかに射すテーブルで、この手紙を書いています。
 君の母親と昨日会いました。あまり君を心配させたくないから書きたいとは思わないのだけども、涙していました。
 誇り高い君は多分そちらから逃げ出す事なんて求めないだろうし、怖がりな君は多分逃げる事も出来ないのだと思うけれど。それでも、時に脱走を願うときがあります。
 もしそちらにこの手紙が届いてしまったならば、申し訳ない、としか言いようがありません。もし戦闘前に届いたなら、尚更申し訳なく思います。
 ――貴方の帰還を願い続けるK。

 蝋細工で硬くなった掌は赤く濡れている、安穏の深淵が見え隠れする水路の岸で彼はもがき続けている。
 彼は青虫のように這いずり回りながらやがてゆっくりと立ち上がる、夜戦のライトが彼の立ちすくむ一角を通り過ぎた。
 途端に機関銃の掃討が始まろうとする、彼は必死に足を動かすが、血はワインのボトルを割ったように流れ出す。
 月の光が射す草むらの中で彼は必死にもがき続ける、しかし戦火の饗宴は彼を供物にしようと揺らめき続ける。
 銃声が何度も響く、蛆虫のように惨めにはい回り続ける彼の節々を銃弾が何度も抉っていく。
 生命の燃焼、無我夢中で不定形の路を彼は歩き続ける。そこは風の吹かない夜の戦場だった。死臭は風の隙間に埋れ化膿し続けていた。
 ロマネスク。彼はふと思い出す、木漏れ日の中に埋もれていた記憶を。それは幸福な円卓での会話だった。
 ねえ、渇いているってどういう状態なのだと思う。
 子供の哲学がばらまかれたような彼女の語彙に、彼は応える。
 渇いているっていうのは、結局落着いていない、っていう状態なのさ。それは、白夜に似ている。
 白夜というのは、いつまでたっても太陽が沈まない、って事だろ。つまり渇いている、っていうのはそういう事なのさ。
 もっと簡単に言うと、渇いているっていうのは、落着いてないって事なんだよ。
 樹に挟まれた庭の中、円卓には緑を透過した光が僅かに踊っている。彼女は小首を傾げて言う。
 それじゃあ、人間はいつまでたっても渇いたままじゃん。落着かないよ、人間なんて。
 いや、人間には落ち着ける刻もあるのさ。それが眠るという事なんだよ、精神は夜から生まれた生物みたいに動くからね。
 夜から生まれた生物なんて、早々あるかしら。きっと僕らの想像する、視ていると認識している夜こそ、夜から生まれた生物なんだよ。
 青と紫が不安定に入り交じる戦場の空に、ふと銃声が停止した。彼は、僅かながらに息を漏らし続けていた。
 彼の住む街に流れる水路の一つで、今はもう使われていない水路の傍で、彼は僅かに生命を繋ぎ止めている。彼はいつの間にか水路の岸に居て、やがてバランスを崩し落ちる。
 嫌悪する生暖かさと酸い匂い、魚の腐った様な吐きそうな匂いが彼の鼻腔をつんと刺激した。銃声は、鳴らない。
 銃声への渇きと、生を望む渇きが彼の中で交じり合い濁る。彼は音を立てないように、静かに水面から抜け出そうとする。
 しかし、泥濘の様に横たわる青黒い水は彼を澱の中に閉じこめたまま放そうとしない。白い月が、水の上に光を投げ掛けている。
 戦場は静寂に満ちていた。彼は帰る事の出来ない前線兵だった。遥か彼方南に、彼の野営地が有った。彼はおそらく自分が死者の一人として計測されているだろうと思う。
 今なら、この戦場から逃げ出せるかも知れない。彼はそう思うと、水の中を静かに淀み続ける、苦しい呼吸を続けていく。
 渇きの中に残酷に吐瀉された希望が、僅かに彼の生を繋ぎ止めていた。また同時に、その希望の吐瀉に抗い死を求める気持ちが彼の中にはあった。
 夜が、たゆたい続けている中、彼は希望と欲望の中で一人水の中に淀み続ける。

 ――巡る春を待つ花が咲く季節だった、気付かぬままに。春は、いつも思うのだけれども、泥濘みたいに柔らかい。
 明ける冬はいつだって優しく、照りつけ始める春は厳しい。この時節柄、また風邪を引いてしまった。健康体の君には笑われるかもしれない。
 君が居なくなってから一週間が経った訳だ。(こうやって事務的に書いているのは、自分にもう一度認識させる為でもあるので、気にしないでほしい)
 料理に自分は向いていないという事が家を燃やしかけた所でようやく解ったので、もう料理は料理屋で取る事にした。勿論小さなレストランだ。
 北国両国の懸賞が払い戻し金として戻ってきたから、しばらくは働かないでも食べていけるだろう。勿論、貯蓄の為に働こうとは思っているけれど。
 学部の生徒達は皆戦争に対して無関心だ。彼らにとって、北国というのは自分たちの敵である以前の団体のようだという事を、ようやく最近解った。
 いつも思うのだけれども、僕達の国は死という物に対して鈍感じゃないかな。勿論、君の様な軍人達は別としてだけれども、死に対して酷く無気力なんだ。
 もしこのまま戦争が泥沼化して生徒達も戦争に出なければならない事になったら――勿論その時は僕の様なしがない文学部の講師はとっくに戦場に駆出されているだろうけどね――彼らはそこで死という物の重量に気付くかも知れない。そうは言いながらも、僕もおそらくは死を認知してはいない。平和に日常を過ごし、そこに死が僅かながら秘められていても、その痕跡には気付こうとしないだろう。
 死というのは、時に生の終焉だから、幸福だからという人が居るね。君はおそらくそういう人を笑うだろうけど、これが案外笑えないんだ、僕らの生徒は。
 人間は、いつの間にか幸福のペットになったらしい。原始、人間は渇きのペットだった、つまりは不満足に従う動物だった。
 その性質を失って、今人間はずるずると幸福に跪いている。それは勿論、悪い事じゃない。多分僕が言っているのは、単にハングリーであれという事なんだろう。
 いつの間にか美徳がそういう生の証明とか牙を悪徳といって嘲笑い出した。多分君の思う通り、そんな事をしだした奴等は極上の腰砕けに違いないけどね。
 生という物の有り難み、存在の理由はおそらく死に塗れなければ解らないんだと思う。別に、これは戦争を正当化するつもりで言っている訳じゃないけれど。
 でも今、生が僅かにシェイクされ出しているのも、事実だ。死という物がまだ予兆すら出していない、この国を僅かにも覆っていないぐらいの死の勢いと同じくらいだけれども。
 今からは物凄く嫌な言い方をするので、もし嫌なら破り捨てて欲しい。僕は一人の考える人間として、君たちを捉えようとしている。軍隊を。救護兵の恋人としてじゃない。
 戦争というのは必然的に起こり得なければならない物なのかもしれない。言うなれば、それは原始の人間にとって、必ず発生しなければならないものなんだ。つまりは、不満足のペット達の祭典なのだ、本当は勝利も敗北も関係は無い。ところが、現代人というのは、ある程度幸福という物に餌付けをされた人間だ。残念な事に、それは完全に浸された訳じゃない。まだまだ不満足の牙というのは退化しきれずに残り続けているし、幸福という物の絶対性はそう厚くはない。ただ、現代人は生まれながらに不満足と幸福を彷徨う事を決定づけられている。君たち軍隊というのは、その名残なのかも知れない。そしてこの時代にまた戦争が行われたというのも、そういう事に過ぎないのかもしれない。
 戦争が永久に失われるというのは、幸福が人間を包み込む時だ。それには恐らく、より時間が圧力をかける必要があるのだと、僕は思う。
 また牙というのは自ら折る事も出来るのだ、それはいつでも僕達の前に差し出されている手段であって、僕らがさほどそれを意識しないだけだ。反戦主義者は大抵牙を自ら折った様な人間達だ。それが本当に牙の喪失なのか僕には解らないけれどね。彼らは街頭演説で彼らの戦争をやっているだけなのかもしれない。ただそれは、損失が無い分現代的だ。
 今ごろ君はこれを読み終わって怒っているかもしれない、いや怒ってるだろう。多分僕は、君に軍人というのを辞めてもらいたい、それだけの為にこんな文章を書いたでは無いと思う。単に考える人として、この色彩の渦巻く戦争、旧時代の闘犬を観察してみたかった、いわば簡易的な歴史家でありたかっただけなのだと思う。
 文面が長くなったし、おそらく君の好むような話では無かっただろう事を謝っておく。今更だけれど、君の世話していたチューリップの桃色の蕾が膨らみ始めている。
 君の帰還が待ち遠しい。君が年甲斐もなく顔をにこにこさせながら花を突いたり指先で抱きしめたりしているのを、今はとても見たくて見たくて仕方がないから。
 ――皮肉屋かもしれないけれど少なくとも君の帰還を待ち続けている事は確かなKより。

 腕時計の中に青黒い、腐臭に満ちた水が浸水していく様を、月の光を辿って見続けていた。時計の針は、とうに止まっている。
 血と汚い水が混じり合うのに嫌悪感を感じながらも、一方ではその不安定な安定感に微かに安寧を感じていた。
 静かな戦場に風は吹かないまま、死者の痕跡だけが渇いた雑草に走り続けている。
 彼はふと考える。牢獄のイメージ。無限の白夜に建設された牢獄。牢屋には暗闇も眠りも無く、常に爛々とした光だけが滞り続ける。
 渇いている、それはきっと渇いているんだ、と彼は思う。誰もがその中では狂わざるを得ないだろう、と彼は確信する。
 止血すらしていない足は次第に痺れ、暗転が微かに彼を命脈から突き落とそうとしていた。彼は惰性のまま、思考を続ける。
 彼は死にたくない、と思う。そして本当にそれは、些細なのだ、全くの僅かさ。見上げた月は白く光に濁り、闇の中を傲慢に切り裂いている。
 息を、息をする。肺胞は僅かに息を伝達する。心臓の音が、聞こえる。汚水が身体をぶよぶよにして膨らませた様に彼は感じる。
 死者の為のレクイエムは絶対に鳴り響かない、と彼は確信する。戦死者の為の計測によるフーガは恐らく呪言の様に続くだろう、とも。
 止まった時計と、張り付いた深淵の微睡み。ぐるりぐるりと感覚が回転し、色彩が次第に形状を失っていく。そして風が、吹いた。
 死臭の無い戦場の風が、渇く雑草と、水路の澱を、撫でた。
 今この時、彼女は何処で戦っているのだろう、と彼は僅かに思考を繋ぎ止める。
 世界の何処で戦争は続いているのだろう、一体どこまでこの戦死者の数と大砲の音は響き続けるのだろう、と彼は思う。
 とろとろと揺らめく暗闇のクレイドルに抱かれるような錯覚の中、彼は夥しい量の自らの血に抱かれながら、微かに眠ろうと思う。
 眠りが死への扉なんて下らないハードボイルドの表現みたいじゃないか、と彼は目を瞑りながら思う。身体が、沈み込む。掌を。掌を、月の光に翳す。
 月光は澱の中に食込む事無く、静かにただ彼の中に暗闇だけを浸透させていく。耳元で、発泡していく彼女の声が聞こえる。

 砂漠における放浪で、蜃気楼の中に自らの欲望を反映させてしまうというのは良くある話らしいね。
 どういう事。だからね、オアシスが足下にあるにも関わらず、自分の欲望、例えば水が飲みたいなんてものに囚われて、そのオアシスが見えなくなるのさ。
 何だか、馬鹿みたいな話なのね。ああ、馬鹿みたいだろ。でもだからこそ、あらゆる人間がこういうトリックに引っ掛かってしまうのさ。
 人間、人間、人間。急にどうしたんだい、人間を嫌悪するみたいに言ってさ。
 解らないんだけども、人間はもっと自然に身を任せても悪くないとは思わない。さあ、僕は都会生まれの都会育ちの人間だから、よくは解らないな。
 人間同士で戦うのは馬鹿らしいって言うじゃない。私としては、あの理論気にくわないのよね。何で。別に普通の話じゃないか。
 そうじゃなくて、人間同士で兵器を使って戦うのは資源の無駄なのよ。どうせやるなら石と木の棒でやれば良い話じゃない。まあ、私は救護兵だからよくは解らないけれど。
 資源の無駄ね、まあ確かにそうなるな。誰かが戦争は産業だ、なんて言っていたぐらいだからね。産業は自然を食い物にする事で発展してきた物だし。
 人間は生まれながらに闘争を強要されている生物だと思う。いや、それは違うね。人間は生まれながらに闘争を強要されている生物にならざるを得ないんだ。
 違いが解らないんだけどさ。もっと簡単な言葉で言って。ん、今言った通りだよ。別にそれ以上でもそれ以下であってもならないセンテンスさ。
 砂漠の蜃気楼の話だけどさ、それって戦争にも応用出来る実例じゃない。どういう事。いやだから、闘争のオアシスを見逃して破滅への路をどんどん歩いちゃうって事よ。
 闘争のオアシスか。あんまり、好きな例えじゃないな。どうして。別に比喩なんて物は好きにやっちゃえばいいじゃない。まあ、僕は多分に良心的な読み手だからねえ。
 良心的な読み手って、訳が解んないよ。いや、良心的な読み手っていうのはね、無駄に比喩を限定させてしまうような輩の事なのさ、例えば僕みたいな。自虐だけど。
 あ、私そういうの嫌いかも。何か、つまんないじゃん、自由じゃないとさ。真似するだけだったら、何処までいってもつまんないよ。

 模倣。泥濘の様に零れ続けた暗闇の中で瞬いた言葉に目を開く。未だ射貫かれていない掌を、開く。そして、その手を、伸ばす。
 その手を伸ばした彼は、暗闇の上で息をする。水の中で霧散した赤、失われた赤の感覚を、彼はもう一度踏みしめる。
 これは、死の模倣なのだ、と彼は思う。これは、戦死者達への模倣なのだ、と彼は思う。模倣なのだ、死さえも模倣であったのだ、と彼は思う。思う。思う。確信の感覚。
 吐瀉の様な希望が再び汚物に塗れながら蘇生していく、彼の足は再び血を吹き出し始める、彼は水路の中を音を立てる様にして泳ぎながら、岸に付く。
 彼方にゆらゆらと揺らめく黒を、彼は目を細めて見つめる。終わる事の無い夜の様だ、と彼は思う。ピアノの黒鍵と白鍵を彼は夜と昼とに比喩として当てはめる。
 まだ、生きていられるのかと彼は思う。心臓は、封じられる事無く未だ動き続けているのだ。俺は、渇いているぞ、と彼は思う。渇いている、渇いていると。
 ロマネスクの中に揺らめく柔らかな紅に彼は目を瞑り、そして死臭の漂う戦場を、安寧等無き荒野を動かぬ片足を引きずって歩いていく。

 ――正直言って、君の死亡通知を受け取った時、ああこんなにも人間は簡単に死の報告を受けれる生物だったのかと、自分に感嘆していた。
 君の帰還を飾る為に買った黄色と白の二輪のバラは、君の弔いの為に、それでも確かに君を飾る花となった。
 最後の短い手紙を書こうと思う。僕は、ハードボイルド小説の中に出てくる恋人を失った男を模倣しようと思っている。
 貪るだけでは満たされない物がある、と言った友人の話を書いたね。それは、不満足の不足という事そのものに対しての不満足だと、僕は今思っている。
 今僕は渇きの為に渇こうとしている。君が言ったあの比喩の通り、それは闘争のオアシスなんだ、渇きのオアシスなんだ、つまりは。
 戦争なんて物は結局、たった一つのメタファーよりも軽い物に過ぎないだろう。それは、穴だ。世界にぽっかりと開いた、穴のイメージを僕に抱かせる。
 穴は魂の白夜を作り出す奈落の様に、永遠に渇き続けている。白夜なのだ、それはやはり。人を永劫渇き続けさせる拷問なのだ。戦争は、不満足のペット達の産物じゃない。
 それはきっと、詩的に修飾するという前に、巨大な渇きのるつぼなのだ、永遠の。戦場に没した君に、この比喩を最後に送ろうと思う。
 僕にも収集が下ったのだ。
 ――君の死に渇いているKより最後の手紙を、君の墓前に捧ぐ。

 何処かで、銃声が鳴った。それが彼を射貫いた銃声なのかどうかは、死者を抱きしめる大地だけが知り続けている。
 風の無い戦場、渇く雑草と水路の澱に、月の光がゆらゆらと立ち昇る。
メンテ
Re: 短編集【減光のモザイク】 ( No.27 )
日時: 2007/05/28 16:18
名前: 匿名 ID:BbjSg4DU

【掌の中の明日/thanks to “everyhome”...】

月の光が無防備にさらけ出された皮膚の間から漏れ出す。見上げた空の不安定な暗闇が、掌を抱いてくれる気がした。
 掌の中の明日、誰とも繋がないまま居ようとした掌から零れ落ちていく。彼方の爛々と光る街に、風が淀む。
 人はどうして孤独で居たがるのに、明日に向かうには誰かを知らなきゃならないんだろう。
 ひとり迎える束の間の来訪さえ、どうして僕らはその幸福な刹那に浸る事が出来ないのだろう。
 月の光、ひとりぼっちの僕がパーカーの中に入れていた携帯電話が着信音と共にコールを伝える。僕は、もしもしと言う。
 声が僕に言った。どうして君は、こんな所に独りぼっちで居るんだい。その声は、風の音みたいに柔らかくない。
 でもそれは、温度があるから、柔らかくないという事を僕は解っている。僕は、街を見下ろせる崖に、一人座っていた。
 僕は答えた。人間、誰だってひとりで居たいものじゃないか。その声は、僕を笑った。じゃあどうして寂しくなるんだい。
 僕は無言で、孤独に優しく降り注ぐ月の光で指を透かす。そのまま透明になって、僕の身体すら消えてしまいそうだった。
 今夜はちょっと下らない話をしてあげよう。顔の無い話者、声だけの彼は僕にそう言うと、一つの物語を始めた。

 ある所に、幸福な男が居た。多分こんな書き出しから解るかも知れないけどね、これはその男の没落物語なんだよ。
 男には勿論妻、器量の良くて天使みたいに献身を厭わない若い女が居る。その二人の間には、無垢な赤子が一人居る。
 二人は幸福に生活を続けるけれど、そう、多分君が予想している通り、交通事故か、疫病かで死ぬ。
 どうであれ、彼らはまず涙を流す事しか出来ない。次は、ふらついたような足取りで、辛うじて生活を続ける事しか出来ない。
 その次に、自分を怨み鏡に向けて呪言を吐く事しか出来ない。その次に、死を憎悪する事しか出来ない。
 ああ、君は多分こんな反応の分類を嫌がるだろうけれど、これは物語の便宜上仕方ない事なんだ。許してくれ。
 ここからがお伽話の始まりだ。男が賭博にでも堕落したか、骨董屋でもうろついていたか、とにかく男は一枚のカードに出合う。
 多分そこには死神の絵が書かれているか、東洋の如何わしい香料が染みついているか、どうなんだろう。
 とにかくその夜、男は死神に出会うんだ。妻の寝静まった頃、死神はそっと男に一つの交渉を持ちかける。
 まあ、ここで代償として妥当なのは男が愛している妻だろうね。彼は、迷う。迷いながら、死神の交渉に頷いてしまう。
 意地悪な死神はこう言うのさ、死者は明日になれば蘇るとね。男はその言葉を信じる。死神もまたフェアな奴なんだ。
 死神は今日が終わった時に妻の命を奪うという。男はその交渉のフェアな感触に騙されてしまうんだね。
 だってほら、君が知っている通り、永遠に明日は来ないだろう。でも今日の終わりは、永遠に来てしまうだろう。
 だから結局男は、妻の居ない自分の部屋で呪詛を唱え続ける事しか出来ないのさ。それじゃあ、彼は誰にそれを呟いているんだろうね。
 きっとそれは、彼の部屋で時を断続的に打ち続ける振り子時計に対してだろうね。永遠に来ない明日に、さ。

 彼は終わったよ、と言う。僕はそうかい、と言う。もっと高級な話が良かったかな、と彼は言う。僕は別にいいよ、と言う。
 ねえ、何事も思いすぎるだけで寂しくなるなんて、残酷じゃないかな。多分明日も、そんな風に悲しい物になっちゃうんだよ。彼は、言う。
 月の光が降り注ぐ、永遠の安住の地が、僕らの街が崖下では光り続けている。さあ、解らないよ、解らない、僕らに明日は来ないからね。僕は、小さく言う。
 夜風に揺れる樹の静謐が、僕に心地よく目を瞑らせる。でも僕は、それが眠りに繋がらない、ゆりかごには落ちない路だと知っている。
 小さな風に、月の光は揺れる事も無く、僕はただ彼の返答を待っている。ねえ、君は明日という物は信じるに値する物だと思うかい。彼は、ようやく言う。
 多分ね。いや、それは信じるとか信じないかという問題じゃなくて、信じられずにはいられないんだ。じゃなかったら、人間はいつでも自殺が出来る。
 人間が自殺を出来ないのは、明日が続く事を信じなきゃならないからだ。今日が終わらない、そして明日も終わらない、そんな混迷だと僕らは知れる。
 でもね、きっとそれは陳腐なんだ、今日と明日はチーズみたいに分割の出来て食べられるものじゃない。誰もがそうして、時間に迷いこむ。
 僕はそう言い終えると、月をまた見上げる。三日月、チーズを切り取ったように、コミカルなネズミが食べてしまった様な、不完全な月。
 不安定な安住が、君たちの崖下には常に広がり続けている。君はそう言うんだね、と彼は言う。僕はそうだよ、と言う。
 遠くの街に、旅に出ないかと彼は言う。それはどれくらい遠くなんだろうね、地図上で言えばどれくらいの長さなんだろうね、と僕は言う。
 風の無い街、線路は遥か彼方へと延び続けている。次の列車は、来るのだろうか、来ないのだろうか。それは、僕らを幻滅させるだろうか、させないのだろうか。
 ねえ、僕らの最大の悲劇は何だと思う。僕は彼に聞く。誰もが同じ時間に生まれて同じ時間に死ねない事さ。彼は言う。
 声はね、上げた時から、声になるんだよ、と彼は続けて言う。これももしかすると悲劇かもしれない。月の光がさざめく、波が揺れる。夜はバランスを失う。
 誰かを思うなんて事、君はどう思う。彼は、尋ねる。僕は、答える。僕らはそうせざるを得ない生物だという事を証明しているだけだよ。
 僕らはいつだってひとりを望み続けているのに、どうして僕らはひとりじゃ居られないんだろうね。人間は、自分の掌を掴めない生物だからさ。彼は、言う。
 軸を失った夜はゆらゆらと揺らめき星屑はやがて秩序から放れ光を纏い地上に落ちていく。線路、誰も居ない真夜中の線路に、星屑が降る。
 明日を思えば思うほど明日が怖くなる。彼は言う、そんな僕に、誰かである事すら解らない彼は、僕に言う。なら、僕らはどうすれば良いんだろうね。
 どうにも出来ないから、明日も今日も永遠に価値を持ち続けざるを得ないのさ。遥か彼方の街では、明日の暁に発車する寝台列車が煙を上げて入っている。
 誰も居ないホームに、永遠の安住と時間とそうではないところの境界線で、星屑が、月光が、電車のヘッドライトが、交差する。暗闇が、揺れ続ける。
 電話の向こう側の名前の無い彼は、僕らの輪郭で浮遊する世界からの来訪の声が、途切れる。列車は、僕を待ち続けている。束の間の明日の来訪に、僕は目を瞑り感謝する。
 月の光が、明日の無い暗闇へと沈んでいくのを予感していた。声も星屑も無い紫色の闇が、僕らの輪郭のぼやけた世界に繋がるレールを見つめ続けている。
メンテ
Re: 短編集【減光のモザイク】 ( No.28 )
日時: 2007/05/30 21:20
名前: 匿名 ID:vDNYlPi6

【今宵、この泳げぬ魚達の庭で /My fragile sign】

 泳げない魚は魚なんかじゃないんだよ、とあなたは言う。夜の沈殿したこの庭で、あなたはそっと言う。
 泳げない魚はね、出来損ないなのさ、とあなたは言いながら夜露に濡れた手すりに玩ばれている。
 樹達は息を潜め秘密に満ちた片隅が生まれ、そして私はあなたの声を頼りに目を瞑りながら感受を続けている。
 泳げない魚は、泳げない魚には、何処にも行き場所が無いのさ、とあなたは言いながら、暗闇の中で私を視ている。
 この庭ではただ盲人になる事しか出来ない私は、ただあなたの声だけを頼りに世界に繋ぎ止められている。
 今宵、この泳げぬ魚の庭で、私のこの脆弱なサインが風の様に弱々しく声を上げ続けている。
 魚は、願う。でもそれは、泳げますように、なんて言葉じゃない。もっと醜悪で、弱々しい願いなんだろうね。あなたは、夜をかき乱す。
 静謐で退屈な、この刻の無い永遠の現在に縛られた庭を、かき乱す。私はその度に、動揺しか出来ない、言葉なんて吐けやしない。
 魚の願いはね、永遠の家があるという事なんだ。彼の巣があるように、それだけの願いが、何で醜く見えるのだろうね。あなたは、あなたは、あなたは、言う。言う。
 夢の醒めない螺旋状の庭で、覚醒し切れない神秘に抵抗する事も出来ない私は、ただ、あなたという温度の無い光に玩ばれたまま。私には、視えないのだ、もう何も。
 そんな魚の所に、一人の魔法使いの男がやってくる。彼は魚の願いを叶えてあげようと言い出す。きっと彼は、古代の遺産から生まれ出た亡霊なんだろう。
 雨の無い、凍りつきさえしない、壁なんて何処にも無い、この泳げぬ魚の庭で、私はただ眠るように息を細めて、聞いている。あなたの、その声を。
 信号の様に乱立する彼の声が。響き、聞こえざるをえなくする。混線に這寄るスピカ、静謐で厳粛なコードを絶ち切る新星の様に、あなたは佇んでいる。
 魚は彼に言う、私は願いなんて叶えられなくともいいのです、と。魚は一人の殉教者なんだ、彼女は、もしくは彼は。運命への落下を宿命づけられているんだよ。
 見えない星も、眩暈の来訪も、この幸福で穏やかな庭を美しく飾るだけだった、そんな言葉の詩的な睡眠薬に私は今まで眠っていたのだ、その響きだけに。
 今宵、その泳げぬ魚達の庭で、出来損ない達の庭で、出来損ないの私は出来損ないの彼の傷を不意に抉りたくなる、その肉を、視たくなる。赤と黄色に穿たれた傷痕を。
 ねえ、それは比喩なの、声を出す事も出来ない、ただ目を瞑り檻の庭に留まる私は、彼の微笑がそこにあるかどうかは解らない。私の、脆弱なサインは、そこで声を紡いでいる。
 魚が安住出来る地というのはね、結局彼自身の、出来損ないの庭でしかなかったんだ。魔法使いはその事に気付いて去る。あなたのメルヘンが、私を覆い隠す。
 帰る家の無い魔法使いは、一体どこに行くのだと思う、ああ彼には家は無いんだ、彼はだって願いを安易に叶えられてしまうのだから。彼は、殉教者には成り得ない。
 ねえ、あなたは、あなたは殉教者で居られるというの、そうして微睡む私を死にまで至らしめてくれるというの、最後の秘密まで奪ってしまうというの。
 暗闇が息を潜める海の中で、水の無い淀むこの海の庭で、束縛の無い幸福が病理の様に忍び込むこの檻の庭で、私は金色のダイスを拾う。その光沢を、私は想像できる。
 ねえ、殉教者は悲壮だと思うかい、それは違うだろうね、勿論これは全く安易な解釈だけれども、彼らは自らの中に安住を見出せるから。彼の声は私に壁を連想させる。
 壁の無いこの永遠に続く庭に生まれたたった一つの壁に私は抱かれ、そして睡魔の来訪に落涙しか出来ない。伸ばす事の出来ない手が、ダイスを落下させる。
 ねえ、賭博者は悲壮だと思うかい、彼らは喜劇的でも、悲劇的ですら無い、彼らこそ本当の殉教者なんだ、永遠の、永遠に続く殉教者なんだ、僕らも、賭博者なんだ、いつだって。
 ダイスの落下音が不意に止まる、私はその目を見る事は出来ない。ただ庭の中で掻き混ぜられた闇に不粋に光が入り込むのを感受できるだけ。海の底は、檻でしかないから。
 あなたはどうしていつまでもそうやって魔法使いみたいに私を眠らせてくれるの、私にそんなメルヘンを紡ぎ続けてくれるの、あなただって、あなただって。殉教者じゃない。
 けれど私は声一つ上げる事も出来ない、安穏に満ちたこの泳げぬ魚達の庭で、あなたと私の庭で。私はただ微睡む事しか出来ないのだから、二人だけの夜は息を殺させられる。
 あなただけが、声を永遠に紡げる、そうして私はあなたに繋ぎ止められ、そしてあなたも私から繋ぎ止められるのだ、この世界に、この庭では無い、冷たい影の街へ。
 それは殉教だ、そしてそれは賭博だと私は思う。ルーレットに廻る銀色の硝子玉の中には魚達の眼球が浮遊したまま、そんな賭博場じゃない、この孤独な庭は。
 この泳げぬ魚達の庭は、一瞬の治療さえも許されない、千以上の星空と植物が満ち足りているのに、呼吸する事すら、声を響かせあう事も出来ない傀儡達の寝所は。
 ダイスは、あらゆる数字でもあって、同時にあらゆる数字でも無い、いつだってそれは厳粛な賭博と殉教の狭間で揺れている。あなたはそう、言葉を紡いでいる。
 鱗の剥がれ醜い肉の露出した私を抱きしめながら、今宵あなたは私を抱き続けている、抱いている、あなたは抱いている、そうして私は眠る、永遠に続く今宵の為に。
 今宵魚達の泳げぬ庭で、私は私の脆弱なサインが織成すゆりかごの中で眠り、あなたは私の中に溜まる眩暈の音韻を密やかに撫で続けているのだ、この永遠の今宵に。
 泳げない魚は、出来損ないなんだよ、と彼は言う。私も彼も、永遠に泳げぬまま肉のダイスに繋ぎ止められた庭の住人なのだという事なんて、私はとっくに知っている。
 彼は言葉を紡ぐ、傷だらけの音韻で、そっと殉教者の言葉を紡ぐ。鱗を剥された魚達、出来損ないの魚が一体どこで生きていけるかなんて、決まっているだろう。
 それは孤独に響く愛情と、愛に満ちた孤独でしかない、生温い温度の中でゆらゆらと不安定に廻り続ける、いつ輪郭が消え去るかも解らない、海の中の暗闇で、その庭で。
 あなたは、紡ぎ続ける、満たしていく、私を、そしてその中に潜むあなたを。そうして私もあなたも、渇いた海の檻の庭で、永遠の今宵を彷徨い続けている。
メンテ

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