[1889] 【掌編】うたかたに継がれた
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- 日時: 2008/02/08 20:11
- 名前: Raise
ID:QRhM2c3Q
- 空が、落ちてくる。グレーの街並みが、眼に痛い。雪は、雲間から僅かに滲み出た光を浴びて、きらきらと輝いている。たおれ、こんだ。なみだ、ひかり、混じり合うもの。泥のにおい、やさしさ。路地裏。ぼくの世界のすべて。ぼくだったすべて。猟銃。雪。フロックコート。おばあちゃん。弔い。だれもいない街。
ああ。 ぼくは、死ぬ。 ゆきは、いい。このままでいたら、きっと雪が全てを何とかしてくれる。ぼくの死体は凍付き、清掃車の迷惑にはならないだろう。そして腐敗することなく、きれいな身体のままで、柩に納められるだろう。ぼくは焼かれ、ぼくの煙が空にのぼる。ひとすじの煙だ。たった、それだけだ。音もなく雪は積もる。ぼくは埋まる。
シャルルは人形だった。とても、綺麗な顔をしていた。フランスの少年だった。髪は金の糸、フロックコートにはちゃんと真珠の飾りボタン。シャルルは、おばあさんと、ふたりぐらし。おばあさんの名前は、ミス・クレティ。クレティ老嬢は、戦場で死んだ夫のコートから、真珠の飾りボタンと布地をとった。事故で死んだ息子の猟銃をとった。シャルルには、猟銃と、真珠の飾りボタンと、フロックコート。その髪は、おばあちゃんの母が愛用していたニットをほどいて作られた。
ぼくは、何のために生まれてきたのだろう。ぼくは、人形だ。人形であるからには、誰かに遊んでもらわなきゃいけない。けれど、ぼくを受け止めてくれる手は、もうこの街にはない。ぼくの周りには、おばあちゃんしか、いなかった。おばあちゃんは、この街で、ひとりぐらし。この街には、おばあちゃんしかいない。 ぼくは、おばあちゃんの夫と息子のために、作られた。ぼくが、作られた理由を聞くと、おばあちゃんは、コートとおもちゃをそのままにしておくのはもったいないから、と語った。その顔は、とてもやさしくて、やわらかな、この街の誰よりもかわいらしい、おばあちゃんの微笑だった。でも、ぼくはこの街の人は、おばあちゃんしか知らない。ぼくは、スクラップ。子供達は、もうこの街にはいない。
街がゆっくりと枯れていくのを、クレティ老嬢はただ見続けていた。夫の遺品は、この街を去っていった子供達に、ひとつずつ、贈られていった。クレティ老嬢の息子が事故で死んだとき、彼女に帰ってきたものは、骨と、夫の懐中時計だった。その懐中時計は、彼女の廃屋で、今もひっそりと時を刻み続けた。クレティ老嬢は、街が最後の日を迎えようとしているのを、マントルピースの火の傍で、静かに悟っていた。
ぼろぼろの屋根から差し込んでくる星の光が、きらきらとおばあちゃんの銀髪を照らしていた。ぼくとおばあちゃんは、さいごの日が訪れるその前日に、ふわふわのベッドの上で、指をからめながら、おはなしをしていた。ぼくは、おばあちゃんに、きいてみた。 この街は、もう無くなってしまうのですか。 おばあちゃんはいつもの最高の微笑のままで言った。 そう。無くなってしまうのよ。もうすぐ、雪がこの街を埋めてしまうわ。もう、この街には、おばあちゃんとあなたしか居ないの。そしておばあちゃんは、明日、死んでしまうでしょう。 ぼくは、どうしてですか、と聞いた。 おばあちゃんはね、もう、生きるには遅過ぎるの。シャルルはまだ生まれたてだけれど、おばあちゃんは生まれてから、もう大分経ってしまった。いのちは、少しずつだけど、朽ちていってしまうのよ。そして、簡単に消えてしまうの。 おばあちゃんには、もう何もかもが、きれいなものに見える。誰もいない街も、もう嫌な匂いがしなくなった路地裏も、ゴミが凍付いてしまったストリートも。何もかもが、輝いて見える。おばあちゃんは、きっともうすぐ、天国に行くのよ。明日は、おばあちゃんが死んでしまう日。 どうして、そんなことがわかるのですか、とぼくは聞いた。いのちが、そんなに簡単に消えてしまうなんてこと、ぼくにはわかりません、と付け加えた。 星のひかりが雲に遮られ、僕とおばあちゃんを繋ぐのは、その指だけになった。 おばあちゃんには、こどもと、愛している人がいたの。そのどちらも、あっけなく、死んでしまったのよ。シャルルには難しいかもしれないけれど、経験、ということなのよ。ひとは、死に触れ続けているうちに、死を感じられるようになる。感じられるということは、もうそれに引き込まれてしまっている、ということなのよ。あなたには、まだわからないかもしれないわ。 あなたがこの街で弔うのは、おばあちゃん、ただひとりなのだから。 ぼくは、おばあちゃん、あなたを弔う為に生まれてきたのですか、とたずねた。 雲が晴れ、天上の星がまたきらきらと輝き出す。金の星が、ぼくらの寝床をあたたかな眼差しでみつめている。おばあちゃんは、指をはなした。ぼくとおばあちゃんを繋ぐものは、もうどこにもなかった。だれもいない街は、スクラップ。ぼくは、スクラップ。月は、光の蜜を、夜に。
クレティ老嬢の街からは、ひとりずつ、人々が消えていった。まるで、寂しがり屋の神様が、この街の人々をさらっていこうとしているようだった。ひとりは病気で死んだ。ひとりは旅立った。ひとりは隣人に殺され、ひとりは生まれたが、すぐに流行り病で死んだ。ひとりはこの街を見捨て、遠い街へと旅立っていった。 ひとりは、戦争で。ひとりは、事故で。 クレティ老嬢は、路地裏の廃屋に、ひとり、住んでいる。凍付いたレストランで、ひとりガスを使って料理をしている。出来た料理を、彼女は廃屋に持って帰って、ひとりで食べる。シャルルは、ごはんは食べられないから、いつもおばあちゃんが食べている隣で、本を読んでいる。彼女の心臓は、ゆっくりと、凍付き始めていた。もう、この街で冬が終わらなくなってから、何年が経っただろうか。ある日、クレティ老嬢はそのことを考えた。 時間は、もうこの街から、失われていた。
ぼくは、冬の光につつまれ、冷たくなっているおばあちゃんの身体を抱きしめた。太陽は、相変わらず遠い空にある。凍付いたおばあちゃんの身体を、ぼくは黙って墓地にまで運んでいった。墓のひとつを、ぼくはスコップで掘り返した。そこにはある骨の中に、ぼくはおばあちゃんを埋めてあげた。おばあちゃんの家族が眠る墓に。スコップで雪混じりの土を埋めながら、春がきたら、この雪が溶けてしまうのだろうか、とぼくは不意に心配になった。おばあちゃんは、春風に目を覚ますかもしれない。そうしたらきっと、おばあちゃんはまた、この街のひとりぼっちになってしまうのだろう。かわいそうだ、と思い、ぼくは穴を埋めるのを止めた。かわいそうなおばあちゃんが、もう目を覚まさないでいられるように、ぼくは家にまで引き返した。そこにある、おばあちゃんの息子や愛していた人の衣服、それからありったけの毛布全部を、裁断し、一枚の温かい毛布にしてやった。ぼくは、穴のなかのおばあちゃんに、とても大きな毛布をかけてあげた。穴はとても小さかったので、ぼくは墓穴をずっとずっと大きく広くした。おばあちゃんの墓穴は、墓場一杯に治まりきらず、街全てを埋め尽くしていった。廃屋が、デパートが、レストランが、すべておばあちゃんの墓に飲み干されていった。街に残されたのは、凍付いた路地裏だけだった。ぼくは、そこで眠り、そこで目を覚まし、そこで生きた。
けれど、今、おばあちゃんが死んでしまった今、ぼくに何が出来るのだろう。おばあちゃんの廃屋は、もう墓穴の下だ。街はすべて、おばあちゃんと共に、土の中に葬られた。僕が生まれてきたのは、もしかすると、おばあちゃんではなく、この街全てを葬るため、なのかもしれない。だとしたら、ぼくはもう、何もしなくていい。何もしないのなら、ぼくは死ぬしかない。何もせずに生きられるほど、ぼくは頑丈ではない。それにもう、ぼくが死んだとしても、僕は弔われるのだ。 ぼくは雪と泥が混ざり合ったものをこねた。おばあちゃんの母のニットから編まれた毛糸を、頭にかけてやった。おばあちゃんの夫の遺品を、真珠の飾りボタンのフロックコートをかけてやった。名前の無いシャルルに、ぼくはおばあちゃんの息子の遺品を、猟銃を、ぼくが使ったあとは、ちゃんと弾を回収して、もう一度銃に詰め直すように、と言った。ぼくは名前の無いシャルルに、ぼくが生まれてきてからおばあちゃんと過ごした日々の物語を、全て伝えてやった。これからはおまえがシャルルだよ、とぼくはいった。ぼくは、名前の無いシャルルに、シャルル、という名前を与えてやったのだ。そして、ぼくは、なんでもなくなった。だからぼくは、死ぬのだ。ぼくはいま、シャルルの前に居る。 シャルルは、時を失ったこの街で、ぼくの全てを継いだのだ。うたかたに継がれたぼくは、もう何でもない。名前を失い、愛するものを失い、時間を失ったぼくは、もうシャルルではない。スクラップなのも、ぼくではない。シャルルだ。 雪に倒れ込んだぼくに、シャルルは無言で猟銃を向けた。光。シャルルの弾は、丸裸になったぼくのからだを、ばらばらにした。ぼくだったすべては、雪に埋め尽くされていく。ああ、柩なんて最初から要らなかったのだ、とぼくはようやく気付いた。ゆきは、いい。ぼくだったすべてを、おばあちゃんを、凍らせた。光。 空が、落ちてくる。 ああ。 それでも僕は、スクラップだった。 そのスクラップには、もう名前も、愛するものも、時間も、生きる意味も、街も、弔うひとも、ない。シャルル。お前もまた、そうなってしまうのか。ごめんなさい、とぼくははじめて、おばあちゃん以外の誰かに謝ることができた。 ぼくだったすべてが、雪の底に消えていく。

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